REBTについて

「罪を憎んで人を憎まず」とREBT

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REBT入門~理性感情行動療法への招待~を読み直しています。本書の5ページに以下の一文がありました。

『RET(REBTが成立する前の呼び名理性感情療法)の人間の価値については、キリスト教の’罪を憎んで人を憎まず’と言う考え方と似たものがある。RETは、自己受容の立場をとり人間を評価するすべての手段に対する偏見を持つので、倫理的人間主義と同じように人間の神格化や魔性化には、反対する立場をとる。RETは、人間は’自分’の宇宙の中心にいるのであって、彼らの情動の領域での選択する力(無制限の選択ではない)を持っていると考えている。これは、ハイデッカーやティリヒの実存的な哲学に根差している。実存的様相を持っているのである。』

何やら難しすぎて何を言っているか、わからないという人も多いかも知れません。でもここで大事なのは、『罪を憎んで人を憎まず』と言うと、自分ではなく、相手を許す寛大な人間像が浮かぶかもしれませんが…その前に自分に対して適用できる言葉として、これをとらえると言う事です。つまり…。

自分は、間違いを犯しやすい人間だけど、しかし、それでも自分を許す=自己受容すると言う事です。

失敗をしない人間はいないし、評価と言うものも、実に完全な評価など言うものはないわけで、それ故に、「RETは、自己受容の立場をとり人間を評価するすべての手段に対する偏見を持つ」と言うのです。

そうです。REBTの人間観は、自分も他者も失敗しやすい、間違いを犯しやすい存在であって、間違っても人間を神格化したり、あいつは、悪魔が乗りうつっている等(笑)と考えることなく…どんなに不完全でも許される存在であると考えていると言う事です。

自己受容とは、そうした事です。そして、そういう考え方を出来たら自分の間違いを認めることが出来て、これは、改めた方が良いと言う事に考えが至るのです。つまり自己欺瞞に陥らずに済むのです。そして、他の人、周りの人の間違いに対しても寛大になれるのです=他者受容。

いかがでしょう。こう考えるだけでも、生きやすくなるし、社会の質的成長にもつながると言う事にお気づきになられませんか。そして、気楽になれる。

人間のすることは、間違いだらけで、失敗も多いし、そこから状況が生まれてくるのだから、状況もいつも思い通りではないけれど、それでも楽しく、イキイキと生きることが出来る。(無条件の状況受容)と考える訳です。

コロナウィルスの最中、国民側に誤解があると答えた厚生労働大臣がいましたが、彼は、自己受容が出来ていないのかな?と感じたりしています。これは、自己欺瞞ですね。そんなことをしていたら、まさに又、誤解を生むだけなのに…と考えたりします。まず、自分の不完全さを認めて、その上で改善しなければ、真の改善にはつながらないと言う事を理解していないのだろう…。そんなことを考えました。

因みに、自己欺瞞とは…自分に問題があることに気づいていない状態のことを指していいます。欺瞞とは「だます」「あざむく」という意味です。 つまり、 自分の良心や本心に反しているのを心のどこか知りながらそれを正当化している状態の事です。これを続けていたらやがて本当のことが見えなくなる…恐ろしいことです。なぜなら、一生歪んだサングラスをかけて、世の中を見ることになるからです。これでは、成長もなければ、信頼も生まれない事になると思います。

自分も他者も状況も無条件に受容してそして前に進む。そんな力強さがREBTには、あります。

若い頃、失恋したり、失敗したりしたときに、空を見上げるといつもと変わらない青空が広がっていて…そうか何にも変わっていない。自分が失敗した、失恋しただけだと思って、元気を取り戻したことが度々ありました。これは、私流の論駁だったと言う事に気がつきました。

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