カウンセリング

善の研究 西田幾太郎著「純粋経験」とは何か。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

同書を初めて手にして、読んでいます。初めの辺りのテーマは「純粋経験」と言う概念について述べられています。簡単な概念ではないのですが、今でいうとマインドフルネスに近いものだとイメージしながら読んでいます。

まだまだとても、読み込めているとは、言えないので、その中の一文をご紹介したいと思います。私には、とても美しい文章であると思えます。

近代でその最も良い代表者はフェヒナーである彼は、もと物理学を研究し、実験を重んじ、のちには、今日の実験心理学や美学の実験的研究の基礎を置いた人である。しかし、また一方詩人的な豊かな有ち、四十位の時から哲学に入った。彼は、その時の体験を次のように書いている。ある日曜日のこと彼はは、ライプチヒのローゼンタールと言う公園のベンチに腰を掛け考えに耽っていた。遠くから日曜日の音楽が聞こえてくる。そのころ彼は眼を悪くして物理学の研究はできなかったのであるが、まわりには蝶が飛び、緑の芝生が見える。その時彼はこう思った。物理学の立場からすればすべてはアトムの運動であり、畢竟、光も色も音も、アトムの運動に過ぎない。本当の意味では、光も色も音もない。物理学の世界はいわば夜の光景である。しかし、光も色も音もある直接の世界が世界の真の姿ではないか。いわば昼の光景が世界の真の姿ではないか。と。これが彼が「夜の光景に対する昼の光景」と呼ぶものであるが、彼はこうした直観に基づきNannaと言う書物では、植物も魂をもったものであると言い、Zend-Avestaでは、宇宙にも魂があるとした。つまり彼は人間のみならず、動物、植物、地球、太陽系、否、宇宙も魂を有ったものであるとした。生き物であるとした。もっとも宇宙の中にあるものは、皆他に依拠して存在するものであるが、宇宙そのものはしからず、宇宙そのものは、自存的な存在であり、宇宙の魂が即ち神であり、万物はそれを分有しながら生きているのである。つまり彼は、汎神的唯心論を説いたのである。

西田幾多郎は、この一文を大事にしたそうであるが、そこに純粋経験があると言っているのではないかと思うわけです。

「私たちは、常に何かを思考していますが、思考に振り回されるのではなく、その経験の中に没頭することが必要」

と言う様な主張なのかな…と思いながら一日少しずつ、読み進めています。

コメントを残す

*

CAPTCHA